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Essay

イースター島は息子と二人旅で

3/29/2025

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鈴木久雄 (14期1962年卒)本田技術研究所社友

49歳でアメリカ駐在を命じられた。
​
人事課からでは無く社長が直々に言いに来たから、英会話もままならぬレベルながら頑張らねば!との思いで受けた。

3~5年位かなぁ・・・と言われたのでそのつもりでいたが、4年後には、イギリスへ行ってくれ、と言われて日本に帰国せずにイギリスに移動。その4年後に又アメリカに移って57歳になってしまった。私の時代、定年退職は厳格なもので60歳の誕生日が来ると❝お世話になりました。さようーなら❞の時代だったから、仕事は最後までアメリカだな・・と覚悟を決めた。 

退職日は2003年4月だった。2002年、日本で働いていた息子がボストン大のMBAコースに入学したので、この年のクリスマス休暇が私のホンダでの最後の長期休暇となり、息子といく二人旅の機会となった。

さて、アメリカから何処へ行くか? 

散々迷って、「日本からは簡単に行けない所」と決め、イースター島へ行ってモアイ像を見ようという事で合意した。
 
チリの首都サンチャゴから3700キロ離れた太平洋の絶海の孤島にして、僅か日本の小豆島や利尻島サイズの島に、6世紀から作られ始めたと言われるあの巨石象・巨石文化を少し知りたいと興味を覚えた事がその理由である。 
 
記憶を辿りながらの旅日記なので細かい日付等は思い出せないが、2002年12月24日頃ロスからAA(アメリカン航空)でサンチャゴに飛んだ。思ったより長旅で10時間位乗っていた様に思う。イースター島にある滑走路は3000mあって短くはないが両端共に断崖絶壁で、止まれなければそのまま海にドボンの空港だそうだ。従ってパイロットはチリ空軍のピカイチパイロットしか操縦が許されていないのだと、サンチャゴのホテルでの会話で知らされてちょっと怖くなったが後の祭り。決行するしかなかった。 

フライトの日、天候は快晴、風も穏やか、絶好の天候のなか6時間位の飛行だったと思うが何の違和感も無く無事にランディングした。 

​イースター島は海底火山が噴火して出来た火山島で火山岩(凝灰岩)で出来ている大地。ポリネシア人がこの島を発見して住み着いたのは、諸説あるが早い説では4,5世紀に発見し住み着いたと言われている。タヒチから4700キロも離れたこの島に如何にして渡って来たのかは、カヌー位しか移動手段が考えられなかった時代であり全く不明だが本当に人間って凄いと思う。 
​

いずれにしても彼らはそこに辿り着き、定住し、人口を増やし、やがて部落を造り、酋長を中心に勢力拡大を図り、争いが始まったらしい。 

1722年復活祭の日(イースター)にオランダ海軍によってこの島が発見されたのがイースター島と呼ばれた所以になっているが、発見当時完全な石器時代の生活をしていたと言われている。 
争いは部落・部族の守り神を生み出すのだが、その守り神が巨石モアイ像である。彼らはモアイ像を部落の入り口に立てて外を睨んで敵の侵入に備えたのだという。モアイ像はこの争いの中で時間と共にドンドン巨大化して、自分たちの勢力・強さを誇示して行ったのであろうことの推測は容易い。 ​
私の興味は、石器時代の文明しか持たなかった彼らが如何にしてモアイ像を制作したのか? にあった。 
​

述べた様に、この島は火山島で凝灰岩で成り立っているのだが、島の東側ラノ・ララクと呼ばれる直径550mもある噴火口跡がある。外輪山の高さは100mも無いと思われ、斜度はスキーをした私の経験値から推し量ると15~20度位のなだらかな斜面である。

​そしてこの斜面がモアイ像の制作工場である。
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ではどうやって造るのか? 
​

ガイドさんの説明をそのまま記すと、斜面が全部凝灰岩で出来ているので石器時代そうだった様に、黒曜石や玄武岩の硬い石斧を道具として斜面にモアイ像を彫り込んで行くのである。

​制作途中で製造を止めた像が斜面に残っているから、作り方の間違いのない証拠である。
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顔を造り、身体を造り、最後に背中を大地から切り離す。そして山裾迄斜面を滑り落とす。その像を丸太コロに乗せて村まで引き摺って行って立てる。

どうやって立てたかは良く分からないが矢倉を建てて、引っ張ったに違いないがその証拠は何も残っていないし、ガイドさんも何も言わなかった。

​
完成させて滑り下ろしたけど、斜面の下で半分に折れてしまった像も沢山あって、顔部分だけ捨て置かれて残っている。
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像を村に運ぶコロに使うために島を覆っていたヤシの木が切り倒されて自然が失われてしまったと聞かされた。 

村を守る為に像を作ったと聞くと、日本人なら直ぐに寺を守る仁王像を想い出す。あの憤怒の形相で侵入者を怖がらせて入れないのは分かるが、モアイにはその様な怖さは全く表現されていない。どちらかと言えば笑顔やすまし顔と言える。私には部落・酋長毎に争ったとはいえ基本は穏やかな民であったのだろうと推察された。 

さてモアイ像と言えば、日本のクレーン会社「タダノ」が善意で自費を投じて大型クレーンを島まで運び、3年もかけて15体の像を建てて復興した事は良く知られているが、その像はアフ・トンガリキというモアイ工場ラノ・ララクの近い場所にある。ずらりと並び立つ15体のモアイ像を眺めていると、不思議な人間の力を感じ、なんとまぁ~悠久の歴史よ!」という気持ちになった。
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ホテルは所謂日本の民泊の様な所だったので、夕食はチリワインで他の宿泊者、ホテルの人達とワイワイ楽しんだ。息子の記憶によると、私が、「ソイソースが有れば欲しい。」と頼んだところ「ソイソースは無い。」と、言われた。そこで「そうかキッコーマンは無いのか!」 と嘆いたところ、「キッコーマンはある。」と、言ってお醤油が出てきたそうだ。 
何というキッコーマンのブランド力よ! 
ホンダもかくありたし・・と思ったものである。
 

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若い息子はサンチャゴの夜を楽しみに1人で出かけて行った。
​親として息子のことは大いに心配した事を今でもよく覚えているが、
息子と2人でイースター島巡りの旅をしてその成長ぶりに安心したのであった。
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