鈴木久雄 (14期1962年卒)本田技術研究所社友 49歳でアメリカ駐在を命じられた。 人事課からでは無く社長が直々に言いに来たから、英会話もままならぬレベルながら頑張らねば!との思いで受けた。 3~5年位かなぁ・・・と言われたのでそのつもりでいたが、4年後には、イギリスへ行ってくれ、と言われて日本に帰国せずにイギリスに移動。その4年後に又アメリカに移って57歳になってしまった。私の時代、定年退職は厳格なもので60歳の誕生日が来ると❝お世話になりました。さようーなら❞の時代だったから、仕事は最後までアメリカだな・・と覚悟を決めた。 退職日は2003年4月だった。2002年、日本で働いていた息子がボストン大のMBAコースに入学したので、この年のクリスマス休暇が私のホンダでの最後の長期休暇となり、息子といく二人旅の機会となった。 さて、アメリカから何処へ行くか? 散々迷って、「日本からは簡単に行けない所」と決め、イースター島へ行ってモアイ像を見ようという事で合意した。 チリの首都サンチャゴから3700キロ離れた太平洋の絶海の孤島にして、僅か日本の小豆島や利尻島サイズの島に、6世紀から作られ始めたと言われるあの巨石象・巨石文化を少し知りたいと興味を覚えた事がその理由である。 記憶を辿りながらの旅日記なので細かい日付等は思い出せないが、2002年12月24日頃ロスからAA(アメリカン航空)でサンチャゴに飛んだ。思ったより長旅で10時間位乗っていた様に思う。イースター島にある滑走路は3000mあって短くはないが両端共に断崖絶壁で、止まれなければそのまま海にドボンの空港だそうだ。従ってパイロットはチリ空軍のピカイチパイロットしか操縦が許されていないのだと、サンチャゴのホテルでの会話で知らされてちょっと怖くなったが後の祭り。決行するしかなかった。 フライトの日、天候は快晴、風も穏やか、絶好の天候のなか6時間位の飛行だったと思うが何の違和感も無く無事にランディングした。 イースター島は海底火山が噴火して出来た火山島で火山岩(凝灰岩)で出来ている大地。ポリネシア人がこの島を発見して住み着いたのは、諸説あるが早い説では4,5世紀に発見し住み着いたと言われている。タヒチから4700キロも離れたこの島に如何にして渡って来たのかは、カヌー位しか移動手段が考えられなかった時代であり全く不明だが本当に人間って凄いと思う。 いずれにしても彼らはそこに辿り着き、定住し、人口を増やし、やがて部落を造り、酋長を中心に勢力拡大を図り、争いが始まったらしい。 1722年復活祭の日(イースター)にオランダ海軍によってこの島が発見されたのがイースター島と呼ばれた所以になっているが、発見当時完全な石器時代の生活をしていたと言われている。 争いは部落・部族の守り神を生み出すのだが、その守り神が巨石モアイ像である。彼らはモアイ像を部落の入り口に立てて外を睨んで敵の侵入に備えたのだという。モアイ像はこの争いの中で時間と共にドンドン巨大化して、自分たちの勢力・強さを誇示して行ったのであろうことの推測は容易い。
若い息子はサンチャゴの夜を楽しみに1人で出かけて行った。
親として息子のことは大いに心配した事を今でもよく覚えているが、息子と2人でイースター島巡りの旅をしてその成長ぶりに安心したのであった。
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![]() 卒業してから40年ほどは、ある特定の友達を除いて、鳳鳴会とのつながりはほとんどありませんでしたが、十四期(としごろ)会での集まり(お誘い)を機に大館鳳鳴へのかかわりがどんどん増えてきました。 そして、鈴木久雄(関西大館鳳鳴会会長)のおかげで関西大館鳳鳴会も発足し、遠くまで出かけなくても、懐かしい方々と語らう機会が増え、本当にありがたいことだと感謝しております。 私は、今、地域で人権関係の役割を持つことが多いのですが、そのことと、故郷への想いは、深くつながっています。 関西大館鳳鳴会のホームページ開設にあたり、自作の詩を投稿します。 巣立ちゆく子どもたちへ いつかまた 一緒に泣いてくれる 人がいる 黙って側にいてくれる 人がいる 一緒に汗を流せる 人がいる 心から笑いあえる 人がいる いつかまた 一緒に歌いたいね この歌を いつかまた 一緒に見たいね あの空を 小林怜子 元教師(兵庫県) |
Author大館鳳鳴同窓生によるエッセイ&ブログです。 Archives
March 2025
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