布袋屋 智朗(36期 1984年卒)歯科医 今年、還暦をむかえた。還暦というと若い頃はおじいさんだと思っていたが、その年齢になってしまった。若い人たちには今、自分はそう思われているのだろうか。そして私は今、大館から遠く離れた地、広島県尾道市に住んでおり、そこで歯科医院を開業している。 私は大館市に生まれ、有浦小、大館東中、大館鳳鳴高を経て、東京で1浪して徳島大学歯学部に入学した。私の実家は薬局である。親はもちろん、兄二人(私は三人兄弟の三男)も薬剤師である。そんな環境下で育ち、また、親には薬剤師よりは医者になれ、と言われ続け、自ずと医学部目指してきた。私は弘前大学医学部を志望していたが、現役の大学受験は失敗し、東京で浪人。浪人時代はけっこう勉強をがんばり、予備校の先生には合格するだろうと言われていたが、共通一次試験で得意であった数学で大失敗してしまった。2浪はしたくない思いでランクを落とし、また、二次試験の科目の関係で徳島大学歯学部を受験。合格し、入学した。 徳島は、受験ではじめて行った場所であり、親類、知り合いもいなかった。同級生は当然、関西出身者が多く、関東地方出身者は数人いたが、東北地方出身者は、私ひとりであった。だが、特殊な名前(布袋屋)と秋田出身ということで、すぐ覚えてもらった。また、私は運動が好きで部活(硬式テニス部)に入りそこで友人もでき、まあまあ楽しい学生時代をおくった。また、部活の先輩(妻は現役で私と同い年)の妻とも出会い、付き合い、後に結婚した。 一般の方々にはなじみはないと思うが、歯科は医科と同様、いろいろな専門科に別れている。補綴科(義歯、被せ物の専門)、歯周病科、保存修復科、口腔外科などがあり、私は医科に近い?口腔外科に興味をもった。大学卒業後、口腔外科を極めるために大学院に進学し、歯学博士を取得。大学院修了後は大学病院、関連病院の小松島(現在は徳島)日赤病院歯科口腔外科に勤務した。大学病院時代は楽しかったが、ただ大学は研究機関であり、大学に残ることは研究主体になってしまう。私は研究より臨床がしたかったのと、歯科医師の妻と一緒に臨床がしたかったので、開業の道を選んだ。 私は2000年に尾道で歯科医院(ほていや歯科)を開業した。なぜ尾道で開業したかというと、尾道は妻の故郷だからである。当時、開業の候補地としては徳島、秋田、広島を考えた。その中で尾道が一番条件にあっていた。妻の親が土地を持っており、その土地が開業に条件がよく活用できた。当初、歯科医院を新規開業する場合、1億円以上の資金が必要であったが、土地があっただけでも開業資金を減らせた。また、1999年に娘が生またばかりで、妻と一緒に診療していくために、義父母に娘をみてもらうことができた。今思っても、尾道で開業したことは私たち家族にとって本当によかったと思う。ただ、私は三男坊であるが、遠い尾道で開業してしまい、大館から遠く離れたことは私の親には申し訳ないと思っている。 開業してから約20年間は、診療に子育てに奮闘してきた。当然、尾道にも妻以外の知り合いはいなかった。2004年に2人目の息子が生まれた。仕事以外では子どもと遊ぶのが大きな楽しみであった。子どもの行事には進んで出るようになり、いつしか子どもの小・中学校のPTA会長までやっていた。PTA会長はしんどかったが、歯科関連以外のいろいろな人たちと知り合いになることができた。 現在、娘は25歳、息子は21歳となった。 二人とも健康で順調に育ってくれた。娘は歯学部に入学し、一昨年卒業して晴れて私と同じ歯科医師となった。現在は、東京の大学病院で研修をしている。息子は、医学部に入学し、現在4年生である。私が果たせなかった医学部合格を息子が果たしてくれて、自分のことのように喜んだのを今でも覚えている。今後、娘と一緒に診療をしてみたいという希望はあるが、それは彼氏次第かなと思っている。息子には、まずは国家試験に合格して、人間味ある医師になってほしいと思う。 大館で18年、東京で1年、徳島で15年、尾道で26年過ごしてきた60年。 尾道にいる時間が一番長くなった。現在は、子ども2人は尾道を出ており、妻と二人暮らしである。仕事もローンを完済し、それなりに順調である。人生100年時代、これからどうするか、と考えた時に大館にいた頃のことをよく思い出すようになった。私は昨年度から関西大館鳳鳴会に参加している。大館から遠く離れた関西地区で大館を感じることができる。先日、京都で開催された新人歓迎会に参加してきた。今年は3名の新入生が参加してくれ、20歳前後の希望に満ちた若者と話をすることができ、自分の大学入学したての頃を思い出しながら、楽しい時間を過ごすことができた。 これといった趣味のない私だが、生活にも精神的にも余裕ができた今、大館の人や思い出にかかわっていきたいと思うようになった。5年前、親が亡くなり、実家も取り壊しとなったが、お正月、お盆には必ず大館へ帰りたいと思っている。今年のお盆には大館鳳鳴36期の還暦祝いの同窓会が大館で行われる予定で、楽しみにしている。身近では、年2回開催される関西大館鳳鳴会に、これからはずっと参加していきたいと思っている。 私の人生は、故郷の大館を感じ、子どもたちの成長を見守りながらこれからも歩み続けていきたいと思う。 尾道市の写真。
中央に写っている橋は尾道大橋(しまなみ海道)です。その下が尾道水道で、右は向島です。
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鈴木久雄 (14期1962年卒)本田技術研究所社友 49歳でアメリカ駐在を命じられた。 人事課からでは無く社長が直々に言いに来たから、英会話もままならぬレベルながら頑張らねば!との思いで受けた。 3~5年位かなぁ・・・と言われたのでそのつもりでいたが、4年後には、イギリスへ行ってくれ、と言われて日本に帰国せずにイギリスに移動。その4年後に又アメリカに移って57歳になってしまった。私の時代、定年退職は厳格なもので60歳の誕生日が来ると❝お世話になりました。さようーなら❞の時代だったから、仕事は最後までアメリカだな・・と覚悟を決めた。 退職日は2003年4月だった。2002年、日本で働いていた息子がボストン大のMBAコースに入学したので、この年のクリスマス休暇が私のホンダでの最後の長期休暇となり、息子といく二人旅の機会となった。 さて、アメリカから何処へ行くか? 散々迷って、「日本からは簡単に行けない所」と決め、イースター島へ行ってモアイ像を見ようという事で合意した。 チリの首都サンチャゴから3700キロ離れた太平洋の絶海の孤島にして、僅か日本の小豆島や利尻島サイズの島に、6世紀から作られ始めたと言われるあの巨石象・巨石文化を少し知りたいと興味を覚えた事がその理由である。 記憶を辿りながらの旅日記なので細かい日付等は思い出せないが、2002年12月24日頃ロスからAA(アメリカン航空)でサンチャゴに飛んだ。思ったより長旅で10時間位乗っていた様に思う。イースター島にある滑走路は3000mあって短くはないが両端共に断崖絶壁で、止まれなければそのまま海にドボンの空港だそうだ。従ってパイロットはチリ空軍のピカイチパイロットしか操縦が許されていないのだと、サンチャゴのホテルでの会話で知らされてちょっと怖くなったが後の祭り。決行するしかなかった。 フライトの日、天候は快晴、風も穏やか、絶好の天候のなか6時間位の飛行だったと思うが何の違和感も無く無事にランディングした。 イースター島は海底火山が噴火して出来た火山島で火山岩(凝灰岩)で出来ている大地。ポリネシア人がこの島を発見して住み着いたのは、諸説あるが早い説では4,5世紀に発見し住み着いたと言われている。タヒチから4700キロも離れたこの島に如何にして渡って来たのかは、カヌー位しか移動手段が考えられなかった時代であり全く不明だが本当に人間って凄いと思う。 いずれにしても彼らはそこに辿り着き、定住し、人口を増やし、やがて部落を造り、酋長を中心に勢力拡大を図り、争いが始まったらしい。 1722年復活祭の日(イースター)にオランダ海軍によってこの島が発見されたのがイースター島と呼ばれた所以になっているが、発見当時完全な石器時代の生活をしていたと言われている。 争いは部落・部族の守り神を生み出すのだが、その守り神が巨石モアイ像である。彼らはモアイ像を部落の入り口に立てて外を睨んで敵の侵入に備えたのだという。モアイ像はこの争いの中で時間と共にドンドン巨大化して、自分たちの勢力・強さを誇示して行ったのであろうことの推測は容易い。
若い息子はサンチャゴの夜を楽しみに1人で出かけて行った。
親として息子のことは大いに心配した事を今でもよく覚えているが、息子と2人でイースター島巡りの旅をしてその成長ぶりに安心したのであった。 岩川恒男(27期 1975年卒業) 薬学博士 子供は独立し、妻には先立たれ、現在滋賀県で一人暮らしである。 思い起こせば大学院(薬学部薬学研究科)卒業後、希望した製薬会社の岩手工場でやりがいを持って勤務していた。ところが突然の転勤辞令、しかも関西の研究所、おまけに仕事内容は不得手な有機合成で、相当なショックだった。想定外の人生の幕開けである。 転勤先の仕事に馴染めず、上司に頭ごなしに叱責される毎日で酷く辛かった。仕事に見切りをつけ、家業の薬店を継ごうと父に相談した。 薬剤師資格を持つ私が家業を継ぐのは、母が亡くなり、一人で商売していた父にとって渡りに舟と思いきや、「石の上にも3年。3年頑張ってだめなら鷹巣に帰って来い。」とあっさり断られた。 あてが外れたが気を取り直し、課された抗菌剤開発の戦略を練った。先行研究が少なく研究の余地が残されている環状付加反応に着眼し、詳細な検討により新合成法や活性物質を見出せると考え提案した。企業の求めるスピード感あるアプローチとは真逆であり直属の上司に大反対されたが、研究所長に直訴し許しを得た。 それから3年、幸運にも開発候補化合物を創出できた。その後はまさにとんとん拍子で7~8報論文投稿した時点で学位の話があり、母校の東北大で学位審査を受け合格した。まさか苦手分野で博士号(薬学)を取得するとは夢にも思わなかった。 退職後ゆっくりしていたが、医療に貢献したい気持ちが高まり二度目の大学院(医学部医学研究科)受験を決意。社会人枠ではなく、敢えて一般枠で現役大学生に交じって受験した。幸いにも合格し、社会健康医学修士の学位を取得した。これこそ全くの想定外である。 卒業後は、研究生として研究を継続する傍ら、趣味のピアノ、テニス、英語を楽しみ、思いの外充実した毎日である。 末筆ながら関西大館鳳鳴会を立ち上げ、発展させて下さった諸先輩方にお礼申し上げたい。 小林怜子 (14期1962年卒業) 元教師(兵庫県) 卒業してから40年ほどは、ある特定の友達を除いて、鳳鳴会とのつながりはほとんどありませんでしたが、十四期(としごろ)会での集まり(お誘い)を機に大館鳳鳴へのかかわりがどんどん増えてきました。 そして、鈴木久雄(関西大館鳳鳴会会長)のおかげで関西大館鳳鳴会も発足し、遠くまで出かけなくても、懐かしい方々と語らう機会が増え、本当にありがたいことだと感謝しております。 私は、今、地域で人権関係の役割を持つことが多いのですが、そのことと、故郷への想いは、深くつながっています。 関西大館鳳鳴会のホームページ開設にあたり、自作の詩を投稿します。 巣立ちゆく子どもたちへ いつかまた 一緒に泣いてくれる 人がいる 黙って側にいてくれる 人がいる 一緒に汗を流せる 人がいる 心から笑いあえる 人がいる いつかまた 一緒に歌いたいね この歌を いつかまた 一緒に見たいね あの空を 小林怜子 元教師(兵庫県) |
Author大館鳳鳴同窓生によるエッセイ&ブログです。 Archives
July 2025
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